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ブラザーの召命

Pope Benedict XVI
ニコラス神父、前教皇ベネディクト16世とともに。

谷沢永一はその著書『人間通』の中で、人が自己実現の目標としている価値は最終的には彼らの受ける、「名声」、すなわち「社会的評価」に依拠していると述べている。彼はこの人々に、芸術家、思索家、政治家、そして宗教家を含めている。たぶんそのとおりであろうし、私たちの誰も「私はこうした人々には属していない」とは言いえないだろう。 しかし、教会には人間の「もうひとつの」可能性を強調する召命がある。そこに、ブラザーがいる。  人の心を分析することは私たちの能力を超える作業なので、一人ひとりの個人的な動機については触れようとは思わない。ここではブラザーの召命の起源について、基本となるインスピレーションを考察しようと思う。 イエズス会における召命はすべて、他のあらゆる修道会におけると同じように、自分の個人的な利益から離れてイエス・キリストに結ばれ、キリストの使命、キリストの価値、キリストの解放のみわざ、癒しと希望に結ばれることへの呼びかけであることは疑いがない。これは、一人ひとりのイエズス会員の召命における基本的前提である。 とはいえ、社会や教会において、司祭が権威、尊厳、高等教育を受ける一層大きな機会などの言葉で表現される社会的に高い地位を持っていること、あるいは今まで持っていたことも、また明らかである。そして、こうしたことが今や実際には変わりつつあるとしても、その変化はいつも余りに遅いものである。 それに対してブラザーへの召命は、いつであれ、社会的認知や公的地位、あるいは教会における賞賛や名誉に気を取られたり、それらに取って代わられたりすることなく、キリストとその使命を選ぶという純粋さのしるしであり、証しである。ブラザーはその純粋で単純な在り方の内にすべてのイエズス会員の召命の精神を具現している。 大きな使命と目的に向かう修道会にあって、ブラザーたちの控えめな関与の仕方については、イエスを囲む人々の中に象徴的な表現のモデルが探し求められてきた。

あるときには大工である聖ヨセフが、他の場合には忙しくたち働く聖マルタが、ブラザーのイメージに相応しいものと考えられた。今日においては、そうではない。これらのイメージはブラザーの召命の核心に触れていなかった。 ブラザーの召命は、ただイエス自身の姿のみに相応しい範型が求められうるものである。イエスこそは、他者のため、その生命を終わりまでささげた使命のために、自分の個人的な利害の全てを脇へ置いた方である。イエズス会のブラザーは、それゆえ、司祭が関わる同じ霊的現実に参与する。 彼らは、神と生命、人々に対する全面的な開きを生きることを等しく求められる。両者は、キリストとその目的のために自分のすべてをささげたいという望みを共有している。より大いなる奉仕のために開かれ、被造物の価値を正しく評価し、奉仕と協力を熱望し、人生と人々から学ぶことを決してやめようとしない人々の「からだ」に、彼らは属している。  このことは、それゆえイエズス会のブラザーになることを望む人にどのような基本的条件が備わっているべきかを明らかにする。簡潔に述べるならば、

  • イエス・キリストと父である神との全面的な、深い愛情のこもった関係。
  • 共通の使命に関与しているという明確な意識と、その使命に属する者であるというセンス感覚。イエズス会のブラザーは、他のすべてのイエズス会員と同じく、「教会の人」であるべきである。
  • キリストの弟子として神の現存のうちに成長したいという望み。すなわち、人々から、人生から、勉学から、経験から、いつも学ぶことができる人であること。他の人々と人性の旅路を行く共感のできる巡礼者、より良い奉仕のために自分の技能を磨き続ける奉仕者であること。
  • 人々、とりわけ社会や教会において「小さな人々」、弱く孤独な人々、疎外され無視されている人々を高く評価し関わること。ブラザーはまた、共同体において重要な役割を担っている。仲間として自身を捧げるその能力のゆえに、ブラザーはしばしば司祭以上に共同生活に貢献している。

これらはいつでも、ブラザーがイエズス会や地方教会、小教区、彼らが関わることになるどんな共同体にも提供することができる、大きな祝福となることであろう。

霊的な識別によるよりも、社会的な偏見を一層反映していた過去の区別や相違は姿を消した。けっして消え去らないものは、神の霊に対して完全に透明になるという、召命の質に由来する違いである。 いつであれ召命を、とりわけイエズス会のブラザーの召命の路を考える時には、福音が人間に、共同体に、社会生活にもたらす違いにおいて、彼らが真実に異なる、ものであることを望むことであり、そのように私たちは祈っている。ただ聖霊の内的な炎だけが、私たちのありきたりの生き方を変容することができるのである。
         アドルフォ・ニコラス(1995年当時管区長・現イエズス会総長)

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